山田の勝負メシプロジェクト始動!!

YAMADA'S
“SYOUBU-MESHI”
山田の勝負メシ

うなぎとごはんは最強のアスリートフード。
食でアスリートをサポートすべく、日本を代表して戦うアスリート×山田水産の対談企画スタート!

アスリートたちにとって、日本を代表して戦うことは特別な想いがあり、そこに至るまでの熱いストーリーがあります。大事な試合に挑むのは孤独な戦いかもしれません。しかし頑張るアスリートのために、山田水産にも何かできることがあるのではないだろうか、そんな想いから誕生した山田の勝負飯プロジェクト。
古くから人々の”元気の源”として愛されてきたうなぎを、現代のアスリートに”エネルギー源”として提供し、食を通してアスリートのみなさんのサポートをしよう!私たちはこう決意しました。
この企画では、プロジェクトの発起人であり、自身もマラソンsub3.5ランナーとして別大マラソンへの出場も果たす自称アスリート(素人)の山田信太郎専務が、日本を担うアスリートと対談し、スポーツの魅力と食べることの大切さをクローズアップします。

第3回はバドミントン競技で日本初の銀メダルを獲得した藤井瑞希選手。オリンピックに出場した際の貴重な思い出や現役時代の食生活についておはなしいただきました。

メダル

5歳からバドミントンをはじめ、24歳でロンドンオリンピックへ!

メダル

今回銀メダルを持ってきました!もしよかったら首にかけてみてください!

いいんですか!?とても貴重な機会をありがとうございます。ズシッと重みを感じますね。

このメダル何gくらいあると思いますか?

700gくらいじゃないかな?

正解は460gくらいです!実際の重さ以上に銀メダルの重みを感じていただけてとても嬉しいです(笑)

貴重な経験をありがとうございます。オリンピックまでの道のりはやはり長く険しいものだったと思いますが、藤井選手はいつごろからバトミントンを始めたんですか?

姉たちの影響で保育園に通っていた5歳から始めました。私が育った熊本県芦北町は小さな町なのですが、当時バトミントンに携わっているコーチや教員の方々が多数いらっしゃって、町自体でバトミントンがすごく盛んでした。

保育園から始めて、現役を引退するまで25年間バトミントンとともに歩んできたんですね。始めたころからもうプロになるための練習をしていたんですか?

始めたころはまったくそんなことは思っていなくて、母も運動をさせるための機会として姉たちと一緒にバトミントンを習わせていたんだと思います。当時は週3回2時間くらいの練習からスタートしました。

競技として始めたのは?

小学校1年生のときに出場した町の大会で優勝しまして、そこから競技としての練習をしているチームに入りました。

そこから選手としての頭角を現して、中学卒業後スポーツの名門、青森山田高校に進学したんですね。

私が中学校1年生の頃に、付属の青森山田高校が設立して、そのあたりから世間的にもスポーツのイメージができてきましたね。高校時代は高校の代表として、日本代表でバトミントンに励んでいました。

藤井 瑞希 選手

バトミントンが一躍有名になったのは、「オグシオ」ペアの登場あたりからですよね。それまでにも名プレイヤーはたくさんいたけど、そこでぐっと競技の認知度が上がったような印象がありますね。

「オグシオ」ペアは私の5歳上の先輩ですね。私が20歳の頃にはお二人はすでに引退されていましたけど、当時すごく人気だったのをよく覚えています。

ペア競技で選手の名前を短縮して呼ぶのも「オグシオ」からじゃない?

そうなんです!その頃から愛称で呼んでもらえるようになりました。その流れで段々と日本代表になるタイミングになると、「私たちって○○かな?どっちの名前が先に来るかな」ってはなしをするようになったりもして(笑)

今競技人口はどれくらいなの?

バトミントンの認知度が上がっているので、人口もかなり増えて現在選手登録者数が30万人突破ました。競技をしている側からして認知度が上がったなと思う瞬間も増えましたね。例えば昔だとCMでスポーツをするシーンがあると、野球やサッカー、バスケなどのメジャーな競技が多かったんですけど、最近だとそこにバドミントンが入っていることが増えてきていて、「そこでバドミントン使うの!」と不思議な感覚になりますね(笑)
バドミントンに対する注目度が上がっているからこそ、そうやって起用してもらえているんだと思うと嬉しいです。

専務

代表選手の活躍とともにバドミントンがメジャーなスポーツになっている様子がよくわかりますね。藤井選手は2012年にロンドンオリンピックに出場されましたが、オリンピックの存在は大きかったですか?

出場できたら大きな達成感を得られる、大きな目標のひとつではあると思います。バドミントンはオリンピックに向けて1年間レースがあって、さらにその1年間を戦う前にまず2年前くらいまでにランキングの上位を維持して日本代表に入らないといけません。そのため約3年間は日本代表としてオリンピックレースにい続けなければならないんですよ。ケガをできないというプレッシャーもあって、それが一番きつかったですね。

他の大会と比べて特別感はありました?

私はオリンピックだからといって特別な感情はありませんでした。普通の試合と同じだと思って挑んでいたので、いい成績を残せたタイプなんじゃないかなと思います。でも当時はメディアで取り上げてもらうのはプレッシャーになってしまうので苦手でした。私たちがオリンピックに出た時は、「スエマエ」ペアが取材を受けることが多く、私たちは自分たちのやるべきことに集中できたので、とてもありがたかったです。

試合中はもちろん集中していると思うんですけど、どの瞬間にメダルを取ったと実感を持てました?

ロンドンオリンピックの準決勝で対戦相手の世界ランクが自分たちよりも下だったということもあり、メダルを逃すのはありえないでしょ!という状況になっていたんです。でもそういう状況でも、初めてメダルがすぐそこという試合だったので、現役生活25年を振り返ってもあのときの試合が人生の中でも唯一、緊張感がMAXで自分の納得いくプレーができなかったなと思います。試合には勝ちましたけど、必死過ぎて試合をしたという気持ちにはならなかったですね。とても苦しかったです。

試合が終わったあとは、達成感というよりも開放感が先にくる感じだったんですか?

開放感と達成感ですね。嬉しいという気持ちよりも結果が出せてよかった…!という気持ちだけでした

藤井 瑞希 選手

試合が終わって表彰台に上ったときはどんな気持ちだったの?

試合が終わってすぐに退場するんですけど、そのあとすぐに「表彰式です」と言われて、実感がわかないまま表彰台に上ったんですけど、メダルを首にかけてもらった瞬間に重みをグッと感じて…メダルを獲った実感と涙がブワッと溢れました。

メダルは噛んだ?

もちろん噛みましたよ(笑) メダルを受け取ってから、走馬灯のようにお世話になった方々の顔が浮かんでくるんですよ!メダルが取れてよかったーという気持ちと、感謝の気持ちがこみ上げてきて涙がとまらなかったですね。メダリストが涙ながらに感謝を述べるというのは、きっと自然なことで本当に感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

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オリンピック出場後のドイツ留学が
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